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【日本】「顔見知りの町内会の役員さんに言われたから避難しました」が示唆する様々な問題点

こんにちは。渡邉です。

2000年東海豪雨の事例をここ何回かお伝えしていますが、今回は住民の視点をご紹介します。

本題に進む前に1つご紹介ですが、東海豪雨時のアメダス名古屋の雨量と気象台からの各種情報を一つにまとめたグラフが次のものです。

東海豪雨時の雨量と各種情報の発表状況
西枇杷島町編「平成12年東海豪雨災害記録誌」より



















これを見ると記録的短時間大雨情報が愛知県下に何度も発表されており、異常な事態が進行してたことが分かります。ちなみにこの日(2000年9月11日)の雨は観測開始以来の日最大1時間雨量や月最大24時間降水量を簡単に上回っています。


アメダス名古屋の観測開始以降の歴代雨量等
(気象庁ホームページより)














こうした中で新川・庄内川の水位が上がり、庄内川がいよいよ危ないとなった9月11日23時55分に西枇杷島町では全町を対象とした避難勧告が発表され、町から12地区の地区長を通じて57の町内会に連絡が行きました(避難勧告を発表するまでのいきさつはこちらです)。

私の実家にも避難勧告の連絡が入り家族は近くの小学校に避難しました。その時はどちらかというと町内会の役員さんの顔を立てて避難したというのが実情に近いようです。「庄内川が危ない」ということは聞いたそうですが、「まあ避難所で一泊してくるか」ぐらいの心づもりだったそうです。皮肉にも、その数時間後には新川決壊により水没した西枇杷島町を避難所の窓から見ることになりました。

さて、このエピソードは3つの意味で示唆的です。

1つは新川の危険性が住民側でも見過ごされていた点です。庄内川が危ないという情報が町役場に入り、それを受けて避難勧告が出されたため、「新川も危ない」ということが主題に上りませんでした。このため新川決壊はまさに背後から刺されたものとして行政や町民に受け止められました。

また、2つ目として、桁違いに記録的な大雨となっていても人は案外何もしていないことが指摘できます。私の実家が特に鈍いという訳ではなく、これは大雨による災害で共通する課題だと思います。雨量や水位のデータ、あるいは気象台から発表される情報の数々を災害が発生した後から振り返ってみれば、災害発生に直結する危険性を数多く指摘することができます(例えば新川が計画高水位を超えていた点や雨の降り方が観測開始以降もっとも強いものであった点など)。ただ、そうした危険性を進行する事態の中から読み解いて備えることは容易ではないことが言えます。

3つ目として、私の実家のようなケースの場合では避難には避難勧告が必要だったという事実です。町から避難が呼びかけられて初めて避難行動のスイッチが入った訳です。群馬大学の片田教授は避難行動の判断を行政任せにしているのは「災害過保護」と指摘し非難しますが(資料はこちらです)、実際問題として入手可能な河川や気象のデータから危険性を読み取ることは行政でも難しいという課題がありました。なお、この課題は東海豪雨から15年が経過しようとしている現在でも解決されていないと思います。

気象災害には災害へ至る過程があります。その過程で現れてくる様々なサインに行政だけではなく住民側も気付いて適切な避難行動をとっていくことが求められます。