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【日本】大きな河川の大きな危機と小さな河川の大きな危機

こんにちは。渡邉です。

今日は前回の続きで、2000年9月の東海豪雨の際に新川が計画高水位を超えていたのになぜ旧西枇杷島町ではあまり注目されなかったのかをテーマにします。

計画高水位は堤防の設計限度のようなもので、実際の堤防の高さまではまだ余裕が少しある場合もありますが、きわめて危険な水位です。

新川はかなり危険ではあったのですが、それ以上に行政や関連機関が固唾をのんで注目したのは庄内川の水位でした。

旧西枇杷島町は新川と庄内川に囲まれた地域に位置しています(以下の図でいえば水色の部分に相当。一部名古屋市西区を含む)。新川と庄内川では河川の大きさが違っており、新川が切れても町が水没する程度ですが、庄内川が決壊すると「町が川になる」と言われています。

新川・庄内川の位置関係(出典はこちら

















当時の庄内川の水位を見ると次のとおりです。庄内川の水位が11日夕方から一気に上がり続けていることが分かります。

旧西枇杷島町の避難勧告は庄内川の管理者との電話協議で背中を押された町長が23時55分に全町向けて発表しました。時を同じくして各市町村が矢継ぎ早に避難勧告を発表したことが垣間見れます。

西枇杷島町編「平成12年東海豪雨災害記録誌」より
















結果的には9月12日の午前3時半ごろに新川が決壊しています。水位のデータを見れば新川が十分危険だったことは明白なのですが、当時としては「後ろ(新川)から刺された」という表現がもっとも心情にあっていたと思います。

ちなみに新川は江戸時代に治水目的で掘られた人工河川です。旧西枇杷島町から見て上流部分に洗堰と呼ばれる堰があり、通常は干上がっていますが、庄内川増水時には増水した水が新川に流れ込み、より甚大な被害をもたらす庄内川の決壊を防ぐという仕組みがありました。

再度、新川の水位を示したグラフを掲載しましたが、この中で「洗堰流入」とあるのは庄内川の水が洗堰を経て新川に流れ込んだ時間帯を示すものです。

西枇杷島町編「平成12年東海豪雨災害記録誌」より


















この洗堰があったから新川が決壊し旧西枇杷島町が沈んだのか、あるいはどこかでもっと甚大な被害が起こることを未然に防いだのかは分かりません。ただ、旧西枇杷島町民の中には「新川はその役目を果たした」と言う人が少なからずいたのも事実です。

次回は当時の住民の動きをまとめます。

(「【日本】災害情報は手元にあるだけでは使えないという例」に続く)