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【日本】災害情報は手元にあるだけでは使えないという例

こんにちは。渡邉です。

今日も2000年東海豪雨時の続きです。

旧西枇杷島町の西を流れる新川が計画高水位を超えたのは2000年9月11日19時40分であったのですが、町が避難勧告を発表した直接の契機は町の東側を流れる庄内川が危険な状態になる見込みであると河川管理者から伝えられた後の同日23時50分のことでした。

新川の緊迫した状況に対して積極的な避難が呼びかけられなかった理由には、目が庄内川に向いていたというものに加えて、そもそも河川水位を避難の判断に活かすことができなかったという点も指摘されています。

この点について詳しく調査した結果が吉井博明氏の論文(出典はこちらです)のP128にまとめられているので以下引用します。以下の引用で町長とあるのは当時の西枇杷島町長のことです。
町長は避難勧告をいつ出すべきか迷っていた。庄内川と新川の水位については、テレフォンサービスにより、ある程度入手できたが、水位が何メートルになったところで避難を呼びかけるべきか、天端まであとどのくらいあるのか、いつ越流しそうなのか、といったことがわからず、判断に迷っていたのである。 
そこに一本の電話がかかってきた。庄内川工事事務所所長からの電話であった。庄内川がはん濫する危険性があり、避難勧告を出した方が良いのではないかという内容だった。この電話でのやりとりにより、町長は避難勧告を出す踏ん切りがついたという。午後11時55分、町長は全世帯を対象に避難勧告を出した。「庄内川が氾濫する恐れがあるので、避難してください」という内容であった。
「災害情報は認知されただけでは活用されない」というのは災害情報の研究者の指摘です*1。水位に関する情報から町にとっての危険性を読み解くという点は旧西枇杷島町では残念ながらうまく行うことができませんでした。

ただ、当時は洪水ハザードマップが整備される前の段階で、新川・庄内川ともに浸水想定区域図は未整備でした(東海豪雨を受けて水防法が改正され、浸水想定区域図が整備されるようになっていきました)。また、新川は当時、洪水予報の対象河川ではありませんでした(出典はこちら)。

社会制度的にも、町の行政能力的にも、河川管理や気象の面で素人の町長が丸腰で避難を判断しなければならないという状況でした。庄内川工事事務所長という専門家集団のトップからのアドバイスを受けて避難の判断を下したのですが、結果的にはアドバイスを受けた庄内川ではなく新川が決壊したため、町にとっても多くの住民にとっても「寝耳に水」という事態が生じました。

次回こそ当時の住民の様子をまとめたいと思います。

(「【日本】「顔見知りの町内会の役員さんに言われたから避難しました」が示唆する様々な問題点」に続く)

(出典)
*1:牛山素行『豪雨の災害情報学』古今書院、P156